みんなの前で
当教室ではどのお子さんも毎回みんなの前に立ち、なにかひとつのテーマの下、お話しする機会があります。テーマは特に決まっていません。「今週一週間にあったできごと」でもいいですし、「おじいちゃんの家に行ったときの話」でも「この間プールに行ってきたエピソード」でもかまいません。
小学二年生くらいのお子さんはもう慣れたもので、すくっと立ちあがると、自分なりの言葉で聴いているお友達の前で堂々とお話を始めます。一方、小さなお子さんにはそう簡単ではないようです。
小さなお子さんにとって人前に出て話すというのはそれだけで途轍もないプレッシャーです。始める前から涙がこぼれ落ちてしまいそうな子もいますし、自分の番がまわってくるまでの間、緊張のあまり顔がこわばっている子もいます。いざ勇気を振りしぼって話し出しても、二言三言なにか言葉を口にしただけで黙ってしまったり、こちらが助け船を出してくれるのを待って一生懸命わたしどもの顔を見つめてくる子もいます。
いつもとちがう緊張
まわりで聴いている子たちはみんな顔見知りです。ふだんおしゃべりしたり、いっしょにお外で遊んだりしたりするお友達なのに、なぜ子どもたちは急にこうして車座になり、自分がその中で立って「発言する」というだけで緊張してしまうのでしょう。
それは(あたりまえですが)これまでそうした経験をしたことがないからです。人間、だれしも未知の体験の前には気後れしてしまうものですし、ましてそれが現在年中さんや年長さんの「一番近しい人間はお母さん」という小さなお子さんであればなおさらでしょう。
しかし幼少期よりこうした機会を設け、人前で話す習慣を身につけておくのはとても大切なことです。通常、お子さんが学校側からこうした行為を求められるようになるのはもっと大きくなってから―――おそらく小学校高学年になってからでしょう。ですが、その時では遅いのです。「人前で話す」という行為は不意に求められてやすやすと行えるものではありません。それには練習と心得、なにより場数が必要です。
高まる発表力育成の必要性
近年、小学校受験は再び変わりつつあります。
ペーパーテストだけでなく行動観察や父母面接が重視されるようになって久しいですが、最近はこれに加え親子での会話や対話の様子を見、それを合否を判定する際の項目に加える小学校が増えるようになりました。その背景には、より受験する子どもたちの適正を知り、お子さん一人一人の人格や内面を測りたいという学校側の想いがあるのでしょう。
教育の現場でもこうした個々の児童の発表や発言を土台に据えた指導法は増えつつあります。
社会科では児童同士が半円となってひとつの議題を設け、それについてディスカッション形式で語りあったり対話したりする授業がありますし、算数の時間でもあらかじめ教師が幾通りの解き方を示した上で、児童たちの話しあいによってその最適解を導き出すという取り組みは広く行われております。ですが率直に申し上げて、そうした授業の中で児童ひとりひとりの発言や対話にどの程度主体性があるのかはいささか疑問です
もちろん高い効果を上げておられる優れた学校もありますが、ともすればそれは「討論」や「議論」の形だけを模した遊戯になりがちです。その大きな理由のひとつには、それをとり行う主体者である肝心の児童が、自分の意見や考えを述べたり発表したりすること、そして他者が発したそれに耳を傾け、「対話」という名のボールを投げ返すという行為自体に慣れていないせいにあるのでしょう。
「話す」「聴く」ということ
「人前で話す」というのは技術です。これは決して人に生まれついている技能ではありません。何度となく実体験を繰り返し、成功や失敗を重ね、子どもから大人に成長していく過程で少しずつ身につけていくものです。
もちろんお子さまによって性格のちがいはあるでしょう。内気な子もいれば社交的・外向的な子もいます。友達を作るのが得意な子もいれば、ふだんから誰かとお話しすることが苦にならないお子さんもいるかもしれません。しかし、どんな子であれ、きちんとしたトレーニングなしに人前できちんとした論旨と内容をともなった発言をすることはできません。
なにより「だれかの発言を聴く」という行為は、自らに発言する能力と胆力があってこそ養われるものです。自分のことだけを考えているお子さまは、人の話を聞くことができません。投げかけられた(対話という名の)ボールをどうするか、自ら話す力を持っている子は、たいてい相手の話を真摯に聴く「待つ力」を持っています。
発言は決して「度胸」ではない
この手の指導法でいささか誤解があるのは、人前で話したり語ったりすることは決して「度胸」ではないということです。もちろんだれでも人前で話すときは緊張しますし、たしかに心の中で勇気を出さなければならないこともあるでしょう。
しかし話すという当為、振る舞いは徹頭徹尾、技術(スキル)です。そして幼少期のうちからそのことを学び、自分の言いたいことや想いを表現することに一貫して取り組んできたお子さんは、小学校に上がる頃にはごく自然に自分の意見や考えを人前で述べることができます。(当人にとってはあたりまえのことだからです)大勢のお友達や大人を前にしても、怯むことはありません。
しかしそうでないお子さんにとって人前でお話することは大変な試練です。(なにせ生まれて初めての経験なのですから)そしてそうしたお子さんが小学校に上がり、ある程度の年齢になったからといって学校で「さあやれ」と、急にディスカッション形式の授業に放り込まれてもうまくいくはずがありませんし、仮に上手くいったとしても、それはどこかぎこちない借りものめいたやりとりになるでしょう。
まずは自分の言葉で話し、語るという行為と場そのものに慣れること。そして何度となく練習と実践を繰り返し、経験を積むこと。本来、だれかと語らったり話しあったりする「対話」という行為はとても楽しい行為のはずです。よりよくその時間をすごし、人生を豊かにするためにも、幼少期よりその技術を磨くことは勉強やスポーツと同じくらい大切で重要な事柄です。
- 自分の思いを述べること。
- 相手の考えを真摯に聴くこと。
技術と体験に裏づけられた自信があれば、お子さんはたとえどんな局面でも堂々と自分の良さを表現し、だれとでも豊かな関係を築くことができるでしょう。
正解・不正解はない
当教室では子どもたちの発表が一通り終わったあと、子どもたちに感想を聞きます。「だれが一番うまいと感じた?」「だれが上手にお話しできていた?」というふうに。
みんな子どもであってもそれぞれ意見があるのでしょう。みな思い思いに感想を述べます。そんなときやはり評判がいいのは、ユーモアをふんだんにまぜてお話をする子や聴いていてその情景が浮かぶような説明をする子、思わず笑顔になるようなたのしいお話をする子です。
うまくいった子はうれしそうですし、そうでなかった子は残念そうな顔をしています。おそらく子どもたちはこうしたたくさんの体験を経て、少しずつ自分なりの言葉、自分なりの話し方を見つけていくのでしょう。
魅力的な大人に
発表や発言に不正解というものは存在しません。
子どもたちがそれぞれ語る言葉は彼らなりに精一杯真摯なものですし、そこに正誤というものは本来存在しません。大切なのは自分という人間が感じたり、考えたりしていることをなるべく正確に伝えようとする意思と努力、そして相手の言葉に耳を傾け、理解してあげようとする気持ちです。
- だれかにむかって語りかける。
- 自分の想いを述べる。
- 意思や情報を伝達する。
そして笑いやユーモアを織り交ぜながら、まわりに明るくたのしい雰囲気や場を作りあげていく・・・。そうした能力を持つお子さんはだれからも好かれますし、頼りにされます。なによりその個性と人柄は、お子さまがいつか大人に成長して広く世に出たとき、きっと周囲を照らす大きな輝きとなることでしょう。